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  • あしゅラ事務局長

工楽松右衛門の生涯

松右衛門の生涯を一番新しい研究冊子「湊とともにー工楽松右衛門と江戸時代の高砂ー」(高砂市教育委員会 令和2年2月発行)の年譜から見ていきましょう。



初代松右衛門 年譜


和暦(西暦、初代年齢)事績


寛保3年(1743年、1歳) 漁師宮本松右衛門の長男として、高砂町東宮町に誕生。[市]


宝暦13年(1763年、21歳)兵庫津の廻船問屋・御影屋で、船乗りとなる。[農]


安永6年(1777年、35歳)このころまでに御影屋の廻船を任されている。御影屋平兵衛の持船・八幡丸の沖船頭となる。[市] (沖船頭…船に乗り込み、船長として実務を行なう)


安永8年(1779年、37歳)影屋平兵衛の持船,春日丸の沖船頭となる。[農]


天明2年(1782年、40歳)御影屋平兵衛から独立し、「松右衛門帆」を発明する兵庫 津・佐比江に居を構える。[市]


天明4年(1984年、42歳)秋田より材木を筏に組んで運んだことが、大坂市中に知れわたる。[農]


二代松右衛門(長兵衛、定栄)誕生。[報]

 

寛政4年(1792年、50歳)このころには独立し、御影屋松右衛門を名乗る。[市]


寛政6年(1794年、52歳)4月、御影屋松右衛門と北風荘右衛門が新造した住吉丸で、石狩の工ゾマツを大坂へ届ける計画をしている。[工]


寛政8年(1796年、54歳)このころ直乗船頭となっている。[工](直乗船頭・・船主であり船頭もっとめて廻船業を行なうこと)


享和元年(1801年、59歳)このころ、エトロフ島シャナ村アリモイに湊を築く。[報]


享和2年(1802年、60歳)蝦夷地埠頭築造の功により、幕府より30両三人扶持を給され、「エ楽」の姓を賜る。[工」


箱館奉行の御雇(主に廻船の仕事)をつとめる(文化4年まで)。[工]


享和3年(1803年、61歳)幕府の命により箱館地蔵町の寄洲にを築く。[報]


豊前英彦山(福岡県)の河川の開削アドバイスをする。[農]


享和4年(1804年、62歳)正月、持船(350石積船)ー艘を御影屋平兵衛へ譲渡。[工]


文化元年(1804年、62歳)箱館湊築港竜山石を運び焚場を構築。[三]


文化3年(1806年、64歳)豊前・伊田川を砕石工事する。各種工作船を発明。[三]


文化4年(1807年、65歳)6月21日蝦夷地での御雇を終える。[工]


文化5年(1808年、66歳)閏6月24日、高砂の川方世話役の柴屋三郎右衛門・塩屋太-郎・鍵屋孫右衛門、高砂川の浚渫について、松右衛門に協力を仰きたい旨を申し出る。[工] 


冬、姫路藩の命により高砂川浚普請と湛保の築造を行なう。[工](この仕事は文化7年までで、川と湛保の普請保守管理も含め、明治初期まで続く)


文化6年(1809年、67歳)対馬へ渡る小倉藩主小笠原忠固のため、高砂で千石を越える船艦相生丸を築造する。[報]


豊前より帰る途中、鞆に寄り、波戸築造の見積もりをする。[農]  


岡本屋清兵衛・水京屋卯兵衛を鞆に遣わす。[農]


文化7年(1810年、68歳)姫路藩主酒井より、金10両と五人扶持、そして御水主並として一代限り召し抱えられる。[工]  


8月20日、兵庫より高砂へ居住を移す。[工] 


12月25日、小倉へ向かって高砂を出帆。[報]


文化8年(1811年、69歳)2月、御影屋松右衛門・同喜兵衛を証人として高田屋嘉兵衛・嘉蔵・金兵衛へ箱館築嶋を代金170両で永代譲渡する。[報] 


2月7日、小倉より鞆に到着、日帰りで波戸築造箇所見分。[報]  


4月、芦田川の見分を行なう。[報]  


4月13日、鞆湊 築造にかかわり、新造松栄丸の船おろしに同行する。[工] 


5月21日、鞆津波戸普請出来、中山斧介から礼物の目録が届く。[工] 


8月、鞆大波戸ほぼ完成し、福山藩掛かり役人が工楽に扶持を与える。[工]


文化9年(1812年、70歳)2月、御影屋松右衛門・鍛冶屋善兵衛・宮本屋長兵衛を証人として高田屋嘉兵衛・金兵衛 へ箱館築地新地舩居場代金105両で永代売渡する。[報] 


8月21日、高砂の自宅で死去。[工]  


10月10・11日、初代松右衛門の五十日法要が営まれる。[工]



出典:

[工]工楽家文書 

[農]『農具便利論』1822年

[三]『エ樂三世略伝』1922年

[市]『高砂市史第2巻』2010年  

[報]『エ楽家文書調査報告書』2019年



この年譜から、工楽松右衛門は、高砂生まれで、高砂を出て、兵庫の津(神戸)で、廻船業の仕事に就き、亡くなる2年間を高砂で暮らし、60~65歳は、函館を拠点に廻船業をしていたことが分かります。


松右衛門の生きた時代は、江戸時代後期、将軍でいうと、8代吉宗から11代家斉の時代です。


工楽家の資料も加わり、具体的で、いい年譜だと思います。


ただ気になることが、1つ。15歳で高砂を出たという記録がないのは、なぜかと思いました。


高砂へ帰ってきた松右衛門は、たった2年間で、高砂に、橋や港をつくりました。


私の大好きな江戸時代の2つの資料です。(江戸時代の高砂、何度見ても飽きません)


昔の相生橋と波戸の様子です。

松右衛門、69歳、70歳、人生最期の大仕事です。


今は、橋の長さ442mの相生橋ですが、初代の橋は、石垣の山と山の間に板を置き、渡っていたんですね。馬も渡れるんですね。


付近の様子は、すっかり変わりましたが、永楽橋は今もその位置にあります。

向島はほんの小さな洲だったんですね。



波戸道の先にある灯篭(灯台)は、高砂神社正門付近に移しています。

べざい‐せん【▽弁才船/▽弁財船】 の解説

江戸時代に内航海運で活躍した和船の形式。船底材の先に船首材、後ろに幅広の戸立てをつけ、三段の外板などを組み合わせ、四角帆1枚を用いるもの。帆走性能がよく、少数の乗組員で運航できるため、瀬戸内海を中心に発達して普及。菱垣 (ひがき) 廻船樽 (たる) 廻船北前船などに用いられた。千石船。べざいぶね。べんざいせん。












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